NPO法人むすめかぶき

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名古屋城

名古屋城は、名古屋台地の北端に位置し、この地は平安時代から那古野(なごや)の地名をもって知られており、交通の利便のよい地でした。徳川家康は、第九子の義直に封土(ほうど)として尾張の地を与え、その居城とするため清洲城を改修しようとしたが、地の利の点などから、この地に城を築くことにしました。牧助右衛門ら5名を普請奉行に任じ、慶長15年(1610)に縄張を実施、加藤清正を御城御築総大将役(おしろおんちくそうだいしょう)に任じて、福島正則等西国の大名20名の監督に当たらせました。また作事奉行には大久保石見、小堀遠江ら9名を任じて慶長17年に天守閣が完成、慶長20年(1615)名古屋城完成。名古屋城は、その後250年間、徳川御三家筆頭尾張公の居城として伝領されてきたが、明治時代には陸軍省鎮台、宮内省離宮となり、昭和5年には宮内省から名古屋市に下賜され、以後名古屋市により管理されてきました。名古屋城の文化財重要文化財・西南隅櫓(末申隅櫓)名古屋城の本丸南西にある西南隅櫓も現存する櫓のひとつです。・西北隅櫓(御深丸戌亥隅櫓、清洲櫓名古屋城の北西エリアに現存する戌亥隅櫓(西北隅櫓)は清洲櫓とも呼ばれています。・本丸表ニ之門(南ニ之門)本丸表二之門は当時の本丸大手の外門で、南二之門と呼ばれていました。・東南隅櫓(辰巳隅櫓)名古屋城本丸の東南隅櫓(辰巳隅櫓)は現存する隅櫓のひとつです。・旧二之丸東ニ之門清正石のそばにある旧二之丸東二之門は重要文化財に指定されています。・二之丸大手ニ之門(二之丸西鉄門ニ之門)二之丸大手二之門は現存する門のひとつで、古くは西鉄門と呼ばれていました。天然記念物・カヤ(西ノ丸) 名古屋市内では唯一の国指定の天然記念物です。城とともに戦災にあい半ば焼失したが、元気を取り戻し成長。そのほか古木・イスノキ(本丸) 本丸の東側のクルミ林の中にある。築城以前から自生していたものと推定されている。・キリ(深井丸) 根囲3m10㎝、幹囲2m70㎝。大木になったものは少ない中、きわめて貴重なキリである。・クロマツ(深井丸) 慶長19年冬、名古屋城の城代高木志摩守が土居一帯に多数のクロマツを植えたが、この木はその中の唯一の生き残りではないかと言われている。・テンダイウヤク(二ノ丸庭園) テンダイウヤクは中国南部原産のクス科の常緑灌木で享保年間(1720年ごろ)日本へ渡来したと伝えられ、日本南部では野生化している。・ナツグミ(本丸)城内にはナツメグの老樹があちこちあるが最も大きな株は西北隅にある。ほか、ヒガンザクラ、ホソバイヌビワ、ヤマガキがある。参考文献名古屋市文化財調査委員会『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』名古屋市教育委員会名古屋城公式ウェブサイト

名古屋東照宮

尾張東照宮は、元和5年(1619)藩粗徳川義直公が名古屋城三の丸に創建し、明治8年に藩校明倫堂の跡地である現在地に移して義直公の霊を合祀し、後に慶勝公の霊を相殿に合祀しました。昭和20年戦災で焼失した後は、以前に曹洞宗万松寺にあった義直公の正室高源院(春姫)の御霊屋が大正3年建中寺に移建されていたものを昭和28年東照宮社殿(本殿)として、さらに移建されたものです。棟札によると、慶安4年(1651)の建物。本殿唐門・透塀に囲まれた本殿は方三間、入母屋造桟瓦葺、一間の向拝つきであるが、桧皮の軒付を残す。中心に方一間の柱間の広い内陣が造られ、周囲に縁高欄がめぐり、正面に木階五段を置く。柱は円柱、上下長押、頭貫、台輪をまわし、斗組は禅宗様三手先で内部は出組。中備に蟇股、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)である。天井は小組格天井。正面に双折桟唐戸、その他は蔀戸で総漆塗であり、上部は極彩色である。明倫堂址(めいりんどうあと)天明3年(1783)開学。尾張第9代藩主徳川宗睦が藩士の子弟の教育のために建てた学問所(藩校)で、初代「惣裁」(総裁)に細井平洲を迎えた。教学は一般庶民の教育にも重点が置かれ、孝子をはじめ勤倹力行、人の道(道徳)のいかに大切であるかを説いた。明倫堂は名古屋および尾張全域にわたって政治的にも社会的にも大きな影響を与えた。参考文献愛知県教育委員会『愛知県の文化財』名古屋市教育委員会『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』

徳興山建中寺

慶安4年(1651)藩主徳川光友公が藩粗義直公のために建立し始め、翌5年主要堂宇を完成、その規模の壮麗さは当時、府下寺院の第一と言われていたそうです。慶応2年(1653)境内を拡げ、元禄11年(1698)以後藩主光友の生母(吉田甚兵衛の姉・歓喜院)を始め、藩主綱誠公、光友公の御霊屋が次々営まれ、更に合祀のための一屋が加えれたましたが天明5年(1785)に火災にかかって、本堂、塔頭および御霊屋を焼失しました。総門、三門と塔頭および御霊屋の一部を残すのみとなりましたが、直ちに再建され、7年に落成しました。明治5年三宇の御霊屋を一つの御霊屋に合祀し、44年二廟を政秀寺より移しましたが、万松寺の御霊屋は東照宮が戦災をうけたので、その本殿として護られました。名古屋市指定文化財・三門(三間重層門) 慶安四年(1651)創建当時の建築物で、総檜造り三間重層門の建築様式で、本瓦葺きである。三門とは、空門・無相門・無願門の三解脱門の意味を持つ。佛教の覚りの境地を表すものである。別名山門とも表記する。この場合は徳興山という山号に因んだ名称で、徳興山の門という意味となる。二階には、釈迦牟尼仏を中心として十六羅漢の像が祀られている。普段は公開していない。・本堂  建中寺の根本道場 天明七年(1787)大火の後に再建されたもので、入母屋造り本瓦葺きで、格調高く古式を保っている。間口十五間(27m)奥行十四間(25.2m)建坪二一〇坪(700㎡)の巨大な木造建築で、現在名古屋市内の木造建築物としては最大のものである。 ・鐘楼 天明七年の再建で、入母屋造り本瓦葺き、台形の袴腰つきの建築様式、五百貫の(1,923㎏)の梵鐘がつるされている。梵鐘には林道春(羅山)の銘が刻まれていたため、戦時中の供出を免れ現在まで伝えられている。毎年暮れには除夜の鐘をつき一年間の罪障消滅と来る年の息災を祈る人で賑わう。・開山堂 棟札によると、火災消失の後天明六年(1786)に再建された。大工は斎谷小一郎藤原長虎(さいやこいちろうふじわらながとら)とされている。寄せ棟造り桟瓦(さんがわら)葺き総欅造りで、建中寺の伽藍建築を理解する上で貴重な遺構である。本尊阿弥陀如来を中心として建中寺の開山上人中興上人の木像を安置し、代々の住職の位牌が祀られている。・経蔵 一重もこし付、宝形造り本瓦葺き。内部に精密な八画輪藏を安置する。棟札によると文政十一年(1828)創建。經藏建立の発願は第二十四世金蓮社申譽上人白阿瑞華弁靈大和尚で、その志を継いで第二十五世辨純上人、第二十六世辨成上人の三代を経て完成した。平成十六年(2004)に第三十五世賢瑞上人により名古屋市の文化財補助と貴重な一般寄付者からの浄財をもって平成の大修理が完成した。内部の八画輪藏内には鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められ、実際に輪藏を回転させることができる。当輪藏は、軸部・組物様態など唐様を基本として、虹梁・蟇股・長押に和様の要素を取り入れている。全体に彩色はないが、良質の欅材を主材として木鼻・蟇股などに精緻な細工・彫刻を施している。特に側回り八面の蟇股に彫刻されている意匠は、縁起の良い福徳を将来するとされる独特の「宝ずくし文」である。すなわち①東面 七宝に丁子 ②北東面 金嚢 ③北面 宝鑰に宝珠 ④北西面 軍配団扇に宝巻 ⑤西面 宝船に分銅 ⑥南西面 隠れ傘に丁子 ⑦南面 隠れ蓑 ⑧南東面 打出の小槌に俵 以上八面の蟇股には独特な彫刻意匠が施されている。輪藏を回すことにより、福徳が招来されることを願っての彫刻であるとも考えられる。輪藏の回りには、釈迦牟尼仏を中心として、その教えである大蔵経をもってそれぞれの宗旨を立てたという意味から日本に伝わる十三宗の祖師像を安置している。これらの像は昭和八年に岡田天孝仏師のよって刻まれたものである。ほか、本尊『阿弥陀如来」、三門楼上の釈迦牟尼佛などの多くの文化財が愛知県指定文化財、名古屋市指定文化財、文化登録文化財などの指定を受けている。参考文献愛知県教育委員会『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』建中寺ウェブサイト http://www.kenchuji.com/ (2018/6/17 閲覧)