徳興山建中寺

慶安4年(1651)藩主徳川光友公が藩粗義直公のために建立し始め、翌5年主要堂宇を完成、その規模の壮麗さは当時、府下寺院の第一と言われていたそうです。慶応2年(1653)境内を拡げ、元禄11年(1698)以後藩主光友の生母(吉田甚兵衛の姉・歓喜院)を始め、藩主綱誠公、光友公の御霊屋が次々営まれ、更に合祀のための一屋が加えれたましたが天明5年(1785)に火災にかかって、本堂、塔頭および御霊屋を焼失しました。総門、三門と塔頭および御霊屋の一部を残すのみとなりましたが、直ちに再建され、7年に落成しました。

明治5年三宇の御霊屋を一つの御霊屋に合祀し、44年二廟を政秀寺より移しましたが、万松寺の御霊屋は東照宮が戦災をうけたので、その本殿として護られました。


名古屋市指定文化財

・三門(三間重層門)

慶安四年(1651)創建当時の建築物で、総檜造り三間重層門の建築様式で、本瓦葺きである。三門とは、空門・無相門・無願門の三解脱門の意味を持つ。佛教の覚りの境地を表すものである。別名山門とも表記する。この場合は徳興山という山号に因んだ名称で、徳興山の門という意味となる。二階には、釈迦牟尼仏を中心として十六羅漢の像が祀られている。普段は公開していない。

・本堂  建中寺の根本道場

天明七年(1787)大火の後に再建されたもので、入母屋造り本瓦葺きで、格調高く古式を保っている。間口十五間(27m)奥行十四間(25.2m)建坪二一〇坪(700㎡)の巨大な木造建築で、現在名古屋市内の木造建築物としては最大のものである。 

・鐘楼

天明七年の再建で、入母屋造り本瓦葺き、台形の袴腰つきの建築様式、五百貫の(1,923㎏)の梵鐘がつるされている。梵鐘には林道春(羅山)の銘が刻まれていたため、戦時中の供出を免れ現在まで伝えられている。毎年暮れには除夜の鐘をつき一年間の罪障消滅と来る年の息災を祈る人で賑わう。

・開山堂

棟札によると、火災消失の後天明六年(1786)に再建された。大工は斎谷小一郎藤原長虎(さいやこいちろうふじわらながとら)とされている。寄せ棟造り桟瓦(さんがわら)葺き総欅造りで、建中寺の伽藍建築を理解する上で貴重な遺構である。本尊阿弥陀如来を中心として建中寺の開山上人中興上人の木像を安置し、代々の住職の位牌が祀られている。

・経蔵

一重もこし付、宝形造り本瓦葺き。内部に精密な八画輪藏を安置する。棟札によると文政十一年(1828)創建。經藏建立の発願は第二十四世金蓮社申譽上人白阿瑞華弁靈大和尚で、その志を継いで第二十五世辨純上人、第二十六世辨成上人の三代を経て完成した。平成十六年(2004)に第三十五世賢瑞上人により名古屋市の文化財補助と貴重な一般寄付者からの浄財をもって平成の大修理が完成した。内部の八画輪藏内には鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められ、実際に輪藏を回転させることができる。当輪藏は、軸部・組物様態など唐様を基本として、虹梁・蟇股・長押に和様の要素を取り入れている。全体に彩色はないが、良質の欅材を主材として木鼻・蟇股などに精緻な細工・彫刻を施している。特に側回り八面の蟇股に彫刻されている意匠は、縁起の良い福徳を将来するとされる独特の「宝ずくし文」である。すなわち①東面 七宝に丁子 ②北東面 金嚢 ③北面 宝鑰に宝珠 ④北西面 軍配団扇に宝巻 ⑤西面 宝船に分銅 ⑥南西面 隠れ傘に丁子 ⑦南面 隠れ蓑 ⑧南東面 打出の小槌に俵 以上八面の蟇股には独特な彫刻意匠が施されている。輪藏を回すことにより、福徳が招来されることを願っての彫刻であるとも考えられる。輪藏の回りには、釈迦牟尼仏を中心として、その教えである大蔵経をもってそれぞれの宗旨を立てたという意味から日本に伝わる十三宗の祖師像を安置している。これらの像は昭和八年に岡田天孝仏師のよって刻まれたものである。


ほか、本尊『阿弥陀如来」、三門楼上の釈迦牟尼佛などの多くの文化財が愛知県指定文化財、名古屋市指定文化財、文化登録文化財などの指定を受けている。


参考文献

愛知県教育委員会『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』

建中寺ウェブサイト http://www.kenchuji.com/ (2018/6/17 閲覧)


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