名古屋東照宮
尾張東照宮は、元和5年(1619)藩粗徳川義直公が名古屋城三の丸に創建し、明治8年に藩校明倫堂の跡地である現在地に移して義直公の霊を合祀し、後に慶勝公の霊を相殿に合祀しました。昭和20年戦災で焼失した後は、以前に曹洞宗万松寺にあった義直公の正室高源院(春姫)の御霊屋が大正3年建中寺に移建されていたものを昭和28年東照宮社殿(本殿)として、さらに移建されたものです。棟札によると、慶安4年(1651)の建物。
本殿
唐門・透塀に囲まれた本殿は方三間、入母屋造桟瓦葺、一間の向拝つきであるが、桧皮の軒付を残す。中心に方一間の柱間の広い内陣が造られ、周囲に縁高欄がめぐり、正面に木階五段を置く。柱は円柱、上下長押、頭貫、台輪をまわし、斗組は禅宗様三手先で内部は出組。中備に蟇股、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)である。天井は小組格天井。正面に双折桟唐戸、その他は蔀戸で総漆塗であり、上部は極彩色である。
明倫堂址(めいりんどうあと)
天明3年(1783)開学。尾張第9代藩主徳川宗睦が藩士の子弟の教育のために建てた学問所(藩校)で、初代「惣裁」(総裁)に細井平洲を迎えた。教学は一般庶民の教育にも重点が置かれ、孝子をはじめ勤倹力行、人の道(道徳)のいかに大切であるかを説いた。明倫堂は名古屋および尾張全域にわたって政治的にも社会的にも大きな影響を与えた。
参考文献
愛知県教育委員会『愛知県の文化財』
名古屋市教育委員会『名古屋の史跡と文化財(新訂版)』
当サイトの内容は、信頼できる情報源を参照し確かな情報を掲載しているつもりですが、万が一、内容に誤りがございましたらお問合せください。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承ください。
0コメント